201811日 日本フリーメソジスト東住吉キリスト教会 元旦礼拝式 説教概要

聖書: 詩篇 第8篇

題: 「人とは何もの?」

 

T.はじめに

 クリスマスの讃美歌を歌いました。世間では1225日でクリスマスは終わりですが、生まれたばかりのイエス様に東から博士たちが会いに来たことを記念する16日までは教会ではクリスマスです。また、結婚式の讃美歌も歌いました。礼拝で歌うと違和感があるでしょうか。そして、のちほど同じメロディーで教会についての讃美歌を歌います。クリスマス、結婚式、教会の3つは一見無関係に思えますが、共通のテーマがあるように思います。イエス様のご降誕、それは神様の愛のプレゼントです。結婚式、そこで神様の前で夫婦となる男女が愛を誓い合います。教会、それは神様の前でキリストを信じて従うと誓って洗礼を受けた人がお互いに愛し合い、共に神様を愛する神様の家族です。クリスマスと結婚式と教会に共通するテーマは「愛」です。神様の「愛」、人と人との「愛」、神様を愛し人を愛する「愛」です。しかし、私たちは日頃「愛」という名のもとで傷つき、誰かを傷つけることもあります。親であれ子どもであれ、夫婦であれ友だちであれ、ペットとの関係であれ、私たちは時に傷つき、知らないうちに傷つけ、しかし、誰かとの関係においてその傷をいやされ、誰かの傷をいやすこともあります。人とはいったい何ものなのでしょうか。それは約3000年前のダビデという人の歌に表現された問いでもありました。

 

U.みことば

1.問いの背景(詩篇 第8篇1〜4節)

 「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく」(1)と大きなスケールで始まる歌です。「あなたの栄光は天の上にあり」(1)と、神様の栄光とその偉大さに私たちの思いは向けられ、そのまま「指のわざなる天を見、・・・月と星とを見て」(3)と続くのかと思いますが、そうではなく「みどりごと、ちのみごとの口」(2)という赤ちゃんと乳飲み子の小さな小さな口が出て来る不思議な展開です。しかし、ここにこそ、神様の、それこそ「すべてを超越する偉大さ」と共に「小さな存在をも大事にされる細やかさ」とが、「偉大な力とその強さ」と同時に「神様の愛の幅広さとご配慮の深さ」とが表現されています。

 教会の前で先日、先輩のある牧師から昨年いただいた中古の天体望遠鏡(リサイクルショップで2000円で買って修理し様々な経緯の後、私にくださった)で、その牧師を含め数人の牧師と月を観ました。クレーターもよく見え、喜んでいただけて嬉しく思いました。「あなたが設けられた月と星とを見て」(3)とあります。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」(4)という問いは、夜空の月と星という大きなものと、それと比べると小さな「人」とが対比された問いでもあります。私たち人とは、何ものなのでしょうか。

 

2.回復の約束(詩篇 第8篇5〜9節)

 「人とは何ものか」という問いへの答えは「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ」(5)という歌詞で始まります。人は、神様に造られた作品であり、しかも、「これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(6)と続きます。人とは、神様と動物たちとの間に、羊や牛、鳥や魚など動物たちの世話をすることを任せられた、言わば中間管理職のような立場に置かれていると描写されています。

 このあたりのことは事実としては、創世記12章に詳しく書かれています。人には「栄えと誉」(5)という冠がかぶせられているとは、ほかの動物とは違って、「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1:26)という「神のかたち」に造られたことを歌であらわす表現です。「かたち」とはパソコンの画面の「アイコン」という言葉に由来し、指し示すマーク、代理というような意味合いです。つまり、私たち人は、神様の「アイコン」としてこの世界に置かれ、神様の代理として、神様が造られた動物や植物などこの世界を、愛をもって世話をし、育てる存在として造られたのです。

しかし、創世記3章以降での神様への反逆罪ゆえに、人の「神のかたち」は歪んでしまい、今もそのままです。「神のかたち」に損傷を受けた人は、他の人への「愛」のあり方も損傷を受けています。愛の名の下に私たちが傷つき、傷つけてしまうのはこのためです。パウロという人はこう言いました。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事を行わず、かえって自分の憎む事をしているからである・・・すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ローマ7:1519)。神様とのつながりを失うと人は、今の自分を認められず、他の人をも傷つける破壊的な態度を自分で制御できなくなります。その歪みを自分では修正できないのですが、この歌の最後で「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう」(9)とダビデが約3000年前に歌ったのは、ダビデにとってはやがて来られるキリスト(救い主)が、今の私たちにとっては約2018年前に来られたキリストが、私たち各自の「神のかたち」を、「愛する」という能力を、回復させてくださるという約束です。

この詩篇8篇が示す約束の実現は、ヘブル人への手紙269節に書かれています。イエス様は完全な「神のかたちをもつ人」として、また同時に「神」としてこの世界に来られました。イエス様は「死の力を持つ者、すなわち悪魔を」(2:14)、十字架での「ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つため」(2:1415)に、「すべての人のために死を味わわれ」(2:9)ました。イエス様を信じ受け入れる人は、「神のかたち」、すなわち、神様を愛し、自分を愛し、身近な人を愛する愛を回復される道に置かれ、「神のかたち」が回復されていくのを日々経験できるのです。

 

V.むすび   

「人とは何ものか」。それは、自分という人が、家族や友だちなどの間でどんな存在と見られているかという問いでもあります。私たちは何かに愛情を注ぐことで心を満たされます。それはアニメの主人公などの2次元であるよりは3次元の、命のない物であるよりは、神様に造られた動物や植物、親や兄弟、友人や近所の人と付き合うことで傷つくこともあれば心を満たされるものとして造られています。「神のかたち」とはそういうことです。その相手との間で、自分は相手を委縮させたり、傷つけたりする存在になってはいないか。積極的な表現を使えば、その相手への「愛」を増し加えられているか。「愛は、神から出たものなのである」(Tヨハネ4:7)という言葉が『聖書』にあるとおり、神様は、私たちひとりひとりがどんな状態であっても、今も「愛」を注ぎ続けておられます。今も神様から限りなく出て来る「愛」によって、神様に造られた本来の自分へとイエス様によって「神のかたち」を回復させていただきましょう。そのために、夫婦や親子、友だちや近所の人、ペットや植物など、神様に造られた命ある存在との関係や、「教会」という神様の家族との関わりは非常に大切な意味をもつのです。            (:牧師 小暮智久)







































































































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