202075日 日本フリーメソジスト東住吉キリスト教会 主日聖餐礼拝式 説教概要

聖書: イザヤ書 43章16〜21節

題: 「神の民とされて」

 

T.はじめに

今年の半分が終わり、先週から後半に入りました。私たちはそれぞれに、どのような半年を過ごしてきたでしょうか?新型コロナウイルスに翻弄(ほんろう)されたような半年だったかもしれません。これまでに経験したことがない事態に、どうしたらよいかわからず、手探りで一歩ずつ歩いてきたような感じもします。そのような日々を通って、1年の後半の最初の主の日に、集まって一緒に神様を礼拝でき、聖餐の恵みを共に受けることができます。「今日ここに、お互いが生かされてあるのは、ただ神様の恵みだなあ」と実感します。

5月から第1主日には『聖書』の同じ箇所から、お聴きしてきました。それは、「見よ、わたしは新しいことを行う。今それが芽生えている」(イザヤ43:19)という私たちの教会の今年度のテーマのみことばを中心とする箇所です。今日は、その19節のみことばの前後にも目を向け、2つの呼びかけを思いめぐらし、今年の後半をともに歩み出しましょう。

 

U.みことば

1.目を留めるな(イザヤ書 43章16〜18節)

 「目を留めるな」(18)と命じられているのは、どんなことか?それは、「昔のこと」(18)です。また、すぐ前には「先のことに心を留めるな」(18)とあります。同じような内容のことが、別の表現で繰り返される詩のような表現で、印象に残るのではないでしょうか。つまり、「以前のことに目に留めるな」ということがとても強調されている命令です。

 このように命じられるお方は、どなたでしょうか?1617節を見ましょう。「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主」(1617)と言われているお方、すなわち、神様です。そして、この描写は、海が二つに分けられ、その間をイスラエルの民が進み、追いかけて来たエジプトの軍勢から救われた「出エジプト」と言われる出来事です。「軍勢を引き出した主」(17)とはどういう意味なのかと今回疑問に思い、調べてみましたが、手元の注解書には触れられていませんでした。そこで、『聖書』のほかの翻訳を見てみました。「口語訳」では「軍勢および兵士を出てこさせ」、「新共同訳」では「強大な軍隊を共に引き出し」と翻訳されているのを見て気がつきました。これは、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、そこからの解放を願ってモーセが立てられ、「過ぎ越し」の出来事のあと、エジプトの王はイスラエル民族を去らせますが、すぐに心を変えて強力な軍隊に追跡させる場面です。そのとき、エジプトの王の心をかたくなにされたのは主だと書かれています(出エジプト14:8)。つまり、イスラエルを追跡するあの軍勢は主が引き出したと言えるのではないでしょうか。結果としてその軍勢は「みな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せ」たのです。イスラエルの人々にとって「主が行なうこと」と言えば、まず「出エジプト」のことを思い浮かべたでしょう。

 『聖書』はある個所では、過去の主の恵みを、心に留めるように命じています(詩篇103:2)

 しかし、ここでは、「過去の『出エジプト』のみわざに目を留めるな」と強く命じられているのです。どういうことでしょうか?それは、「『神様が働かれるのは海の水を二つに分けるというやり方だけだ』とか『神様が働かれたのは昔だけで、今はそんな奇跡は起きない』というような、固まった考え方に縛られるな」ということではないでしょうか。

2.見よ(イザヤ書 43章19〜21節)

 「目を留めるな」という命令とは対照的な「見よ」(19)という主の命令がここにあります。この「見よ」というみことばは、「旧約聖書」にも「新約聖書」にもたくさんあります。「見よ」で始まるみことばを、いくつか思い起こせるのではないでしょうか。この「見よ」という命令は、「実際に目で見よ」という場合と、「注意せよ」というように心の注意を向けさせる場合とがあります。ここでは、私たちの心の注意を向けさせようとする「見よ」でしょう。ですから、続くみことばが非常に重要です。

 「見よ」と言われる主は、私たちを何に注目させるのでしょうか?それは「わたしは新しいことを行う」(19)ということです。では、主が言われる「新しいこと」とは何か?「今、それが芽生えている」とも言われるように、すでにそのきざしは始まっているというのです。「あなたがたは、それを知らないのか」という問いかけは、神の民イスラエルに対する問いで、「知っていて当然なのに、知らないのか」というニュアンスさえ感じます。その「新しいこと」とは「荒野に道を、荒れ地に川を設ける」(19)ということです。これは直接には、イスラエルの民が当時捕囚とされていたバビロンから解放され、故郷のエルサレムに帰るための道が荒野に、旅に必要な水が荒れ地で備えられることを指します。

 しかも、その「新しいこと」の中には「野の獣、ジャッカルや、だちょう」(20)という動物も主をあがめるという終末の新しい天と地の様子もほのめかされています。つまり、ここで言われる「新しいこと」の中には、いくつかの意味が重なっていると考えられます。新しい天と地、新しいエルサレムなど、神の国の完成が、究極的な意味での「新しいこと」だとすれば、そこに至る前になされる神様と私たちとの間の「新しい契約」も、ここでの「新しいこと」には含まれ、指し示されていると言えるのではないでしょうか。すなわち、イエス様が十字架で裂かれたそのおからだと流された血による「新しい契約」です。

 イエス様を救い主と信じた人は、ここでイスラエルの民が「わたしの民」(20)と呼ばれているのと同じように、神様の民とされました。神様の民とされた人はどのように生活するでしょうか?神様の民のひとりとされた人は、神様の国の国民とされたのです。先日、東京ディズニーランドが久しぶりに再開されました。「夢と魔法の王国」と言われる園内は、感染防止のための制限はあるようですが、多くの人が喜びにあふれて入って行きました。今すでに神の国の国民とされ、毎日を神様と共に、またイエス様を信じた同じ神の国の国民の方々と、場所は別々でも祈り合って、時には電話などで話をして主にある交わりをもてるのは、夢と魔法の王国以上の喜びではないでしょうか。神の民、神の国の国民とされた人は、何を誇りとするのでしょうか?21節を読みましょう。それは「わたしの栄誉」と言われている神様の栄誉です。神様の栄誉こそが、私たち神の民の誇りであり、私たちの存在やことばをもって宣べ伝えたいことではないでしょうか(Tコリント10:31)

 

V.むすび    

今日は、イエス様が私たちのために十字架で裂いてくださったおからだと流された血をおぼえ、それに与(あずか)る聖餐を受けます。この聖餐をいただくこともまた、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」(Tコリント11:26)という神様のみわざを告げ知らせることにつながります。神様の民とされた私たちは、聖餐を受けることによって主イエス様とひとつとされ、イエス様の十字架での死と復活を人々に告げ知らせ、神様の栄誉を宣べ伝える者とされましょう。                   (:牧師 小暮智久)


















































































































                              BACK

                               (戻る)